大人になってから、将棋が好きになった。自分で指すほうの実力は初心者の脱出口付近でストップしたまま、プロの解説つき対局動画や将棋関連の書籍を楽しんでいる。
藤井聡太先生ブームがやってくる少し前、とても大きなスキャンダルが将棋界を襲った。当時最強タイトル「竜王」を保持する棋士が、予選を勝ち抜いて挑戦者になった棋士に対して、ソフトを使ってカンニングをしている疑いがあると竜王戦で対局することを拒否したのだ。多くの棋士が巻き込まれ、あるいは自ら進んで参加し、すったもんだの大騒動になったが、結局そのような事実は確認されなかった。将棋連盟の会長は責任をとって辞任し、時の竜王は謝罪した。
このトラブルには背景がある。
将棋界ではここ20年ほどの間にパソコンの将棋ソフトがどんどん強くなり、人間を超えるという技術革新が起こった。人間の棋士の存在意義とは何か、必要とされなくなるのではないか。プロ棋士たちの心中にはきっとそんな不安が沸き起こったはずだ。対局中、トイレに行ったついでにタブレットを操作すれば簡単に将棋ソフトの手を見ることができる。技術的にも物理的にもカンニングは可能だ。しかし将棋連盟は積極的なカンニング対策をとらなかった。「まさか棋士がそんなことをするはずがない」と身内への信頼に甘えて安逸していたように思われる。
ある集団の中で構成員が何かを「やらかした」とき、その言動がその個人に由来すると考えるか、集団の力動の中で白羽の矢が立った人物に特定の役割が担わされたと考えるか。グループとして見る場合は後者を視野に入れるだろう。カンニングを疑ったほうも、疑われたほうも、数百人の棋士・将棋連盟職員・観戦記者・各種関係者が形成する巨大な集団の中で、潜在している不安を表に引きずり出す、その役割を担わされたのかもしれないと思う。
当事者となった当時の竜王はしばらく成績が低迷した後、将棋ソフトを勉強に取り入れて盛り返し、悲願の「名人」になった。同時に藤井聡太先生には負け続けている。率直に自分の敗北を受け入れ余裕をもって発言している様子は、竜王戦を拒否した当時の切羽詰まった頑なな訴え方と比べると別人のようだ。あの時は彼自身も周りの人間も、本当に何もかもおかしくなっていたんだろうか。集団の中にある不安がきちんとpublicな組織によって対処されないとき、こうやって大きな不祥事がおこるのだなと思った。
なお私の敬愛する羽生善治先生はこの騒動の中でも一貫して理性的に対応しておられたように見えた。素晴らしい。さすがです。
浜崎
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