top of page
検索

会えるかも

  • 執筆者の写真: メンバー
    メンバー
  • 2020年4月16日
  • 読了時間: 3分

 私はworks Tokyo で月一回第2木曜に開催されている「事例から学ぶ」に参加している。業務の都合で毎回は難しいのだが、可能な限りは参加しようと思って、自分の生活の予定に入れていた。個人であろうとグループであろうとスーパービジョンというのは不思議である。発表しようと思って準備をする、そしてその準備が臨床の中で立ち現れる。そして、スーパービジョンの後に、スーパーバイザーの声(グループスーパービジョンであれば参加された方々の声)が臨床をしている自分の中でふわりと聞こえる感じがする。参加を続けると、実際に言われたことでなくても、「あの人はこう言いそうだなあ」とか、ふと思う。そして心の中で、同意し、反論しながら臨床が進んでいく。私は、他の誰かが内在化される(対象となる)という感覚をスーパービジョンでやっと理解することができた(その理解に10年近くかかっているため、私はきっと鈍いのでしょう)。


 つい最近、東京都で緊急事態宣言が発令された。「事例から学ぶ」も中止だろうなあと思っていたら、やはり中止であった。開催されていても、家族の手前、私は行けなかったと思う。それでも喪失は大きかった。

 

 私は、東京都の文京区で地域活動支援センターを運営している。自粛要請をしていたこともあり、緊急事態宣言の前にかなり通所者が減っていた。それでも通所を継続していたのは、「会いたくなったら会える」「行きたくなったら行ける」、そんな感覚が私たちには必要と思っていたから。だけど、緊急事態宣言を受けて、通所は閉鎖せざるを得なかった。毎日のように通っていた人は、私が「事例から学ぶ」の中止から受けた何倍もの喪失感を味わったに違いない。

 実際に、この2か月くらい来ていなかった利用者が、閉所の連絡を受けて落胆している声を聞いた。私たちにとっての安心は「会う」ことと、同じくらい「会えるかも」なのだと実感した。


 安心できる誰かが側にいることは「抱っこ」されている感覚と似ている。そして、その安心できる存在が目の前にいなくても「その人がこの世界にいる。また会える」と内在化され、外界にチャレンジしていける。私は、今までのスーパーバイザーや、「事例から学ぶ」の参加者の方々に「抱っこ」されていたのだろう。私は日常生活の時間のほんのささやかな時間の「会う」ことで「抱っこ」され、その他の膨大な時間を支えられていた。この騒動で時間ができてしまったため、なんとなくウィニコットを読みなおしていて、そんなことを考えた。


 この駄文に何の意味があるのか?と読み直して感じたが、私が「事例から学ぶ」の会に感謝していることが伝われば、そして会えるかどうかは別として、皆さんが「会えるかも」という感覚が持てる日を願って投稿させていただきました。


行成裕一郎




 
 
 

Comments


  • Facebook
  • Twitter

©2018 by worksTokyo. Proudly created with Wix.com

bottom of page